「自己肯定感」という便利で都合のよい言葉に感じる違和感
また最近、自己肯定感という言葉がブームになっているらしく、これがなかなか都合がいい言葉なんだなぁ、と思う。
自己肯定感が高いとか低いとか言っておけば、だいたい説明できる気がするのだ。
- 私は自己肯定感が高いから○○できる
- 私は自己肯定感が低いから××できない
のような感じで。あるいは、
- 私が○○できるのは自己肯定感が高いからだ
- 私が××できないのは自己肯定感が低いからだ
とかいう感じで。
私には、本当の問題を見えなくする厄介な言葉がまた出てきたな、と思う (「自己肯定感」という言葉自体は昔からあるのだけど)。
いや、それ、自己肯定感関係なくね?みたいなのも、そうやって言ってみればそれっぽく感じられるのがミソだろう。
先日も、
「私は自己肯定感が低いから、夢なんてない」
とかいう発言を聞いて、「え?夢のある/なしと自己肯定感の高い/低いは全く関係なくね?」とか思ってしまった。
「自己肯定感が低いことが、どのようにしてあなたの夢を無くすんですか?」とでも聞いてみたいけど、それすらも「自己肯定感が低いから」に帰結していく予感がする。
ここが面白くて、「自己肯定感が低い」と言い張っている人は、そうでもないと思われる事例を示唆しても、頑なに「自己肯定感が低いから」に帰結していく。
なんともトリッキーな言葉なのだ。
自分が自分のことを「自己肯定感が低い」と定義して、絶対にそれを譲らないなんて、なんと自己肯定感の高い人だろう、と私は思う。なにせ、自分の信念がゼッタイに正しいと言って譲らないのだから。
これすらも、単なるその人の「特性」なんだけど、そういう自覚すら覆い尽くす言葉。
個人的にはさっさと使い古されて消えていけばよいと思う言葉なのだけれど、自己肯定感の高い/低い問題にしちゃえば説明がこんなにカンタンぽくなるから、コーチやカウンセラも使いがちだし、なかなか無くならないんだろうな、という気がする。