インプット中心の人生よりは、アウトプットもしていった方が人生は豊かになる、という話。
私が毎日ブログを書いているのは、アウトプットもしていった方が人生は豊かになると思っているからだ。
毎日毎日ブログを書こうと思うと、自然とネタを探すようになるし、それでも「今日は何を書こう・・・」と苦しくなることもある。
普段、人と話していると、
- 何かを買って、どうだった
- どこかに行って、どうだった
というのが話題の中心になっている人がいて、こういう人は毎日ブログを書こうと思ったら、おそらく「ネタが・・・」となることだろう。
というのも、話題の中心が、何かを買ったことや、どこかに行ったことだからだ。
これは逆に言うと、何かを買ったり、どこかに行ったりしなければ、話す内容がないと言うことになる。
だが、
- 私はこんなことを考えている
- 私はこういうことに価値があると思っている
などとという内容も話せるようになったら、どうだろう?
それは自分の中から話題を生み出すことができるということだ。
もちろん、その元ネタは何かしらのインプットから出てくるものになるのだけれど、生きている中でインプットしたことを、アウトプットする回路がある、というのは大きい。
前者の、何かを買った、どこかに行った、というのが話題の中心ということは、その人は誰か他の人が作り出したものをベースに生きていることになる。
極論すると、その人の人生は、他人が作ったものでできている、ということだ。
現代はものが溢れているし、楽しい娯楽はいくらでもあるから、自分の人生をそういうもので埋めることは容易い。
そういう、インプット中心の人生も悪いものではないだろう。
そして、もし、もっと人生に厚みを作ったり、楽しみを増やしたり、豊かにしたいのであれば、自らアウトプットすることも加えていくといいだろう、というのが私の考えだ。
入り口は、買ったもの、行ったところ、でも構わない。
それを使って楽しかったとか、そこに行って楽しかったとか、まずはそれでOKだ。
そこから踏み込んで、これはこう使ったらもっと便利とか、これと組合せたらさらによくなるとか、そういうことを楽しむようになると、人生の幅が広がっていく。
子どもたちを見ていると、予め遊び方が決まったおもちゃというのは、もらってすぐは熱中して遊ぶが、数日すると使わなくなる。仮面ライダーのベルトとか、そういうおもちゃがそうだ。クリスマスに買ってあげたおもちゃは、年明けまで使ってくれたらもった方だと思う。
これに対して、トイレットペーパーの芯とか、中身を使い切ったティッシュペーパーの箱とか、プリンの入れ物を渡しておくと、色々な遊びを発明して、いつまでも遊んでくれる。
息子に関して言うと、母親と一緒にダンボールで作った得体のしれないものを、もう何ヶ月も息子は使っている。たまに見かけると、そのダンボールが何やら拡張されていたり、新しい使い方をしていたりと、また新しい遊び方を作り出していたりする。
これは、出来上がりのおもちゃを買ってきたのでは、そうそう起こらないことだ (それに挑戦するとだいたい壊れて使えなくなる)。
こういう子どもの姿を見ていても、私たちは誰かに作られた、型にはめられた娯楽というのは、意外とすぐに飽きてしまうもので、それよりは自分で何かしら作り出したもののほうが愛着があり、いつまでも遊んでいられるものだ、と言えそうだ。
私もいつからこんなことを思うようになったかはわからないが、いくらかの真理は含まれていると思う。
人生は、インプット中心よりも、アウトプットも混ぜていった方が、きっと豊かになる。