経験から来る思いつきを、研究の俎上に乗せる難しさを感じる日々
放送大学の卒業研究について考えはじめてから、まだどうも感覚的につかめてないことがある。
それは、経験からくる思いつきを、研究の俎上に乗せる、というところだ。
日常的にはそんなことを考える必要はなくて、例えば、「こうしたらいいんじゃないか」と思いついたことをやってみて、うまくいったか、いかなかったかを振り返ってみればいい。振り返ったらまた思いつくことが出てくるから、またそれをやってみればいいだろう。
ただ、それを研究対象とするとなると、どうも途端に難しいものになってくる気がするのだ。
「こうしたらいいんじゃないか」という仮説には、自分なりには根拠があるんだけど、いざ研究するのだとしたら、自分の経験則というのは根拠として弱い。そこで、先行研究を根拠にしたりする。
そうなってくると、根拠になりそうな先行研究を探すことが必要になってくる。
先行研究なんて無数にあるから、ちょうどいいものが見つかる可能性はあるかもしれないけど、確率的には厳しいだろう。なにせ母数が多すぎる。
そこをうまく絞り込むスキルみたいなものが養われてくるともっと楽になるのだろうか。単純に知識の物量を増やすことも有効なのだろうか。
そして、先行研究がないようなら、その研究には価値がないんじゃないか、とかも考えないといけないらしい。あくまで思いつきレベルでは、研究の俎上に乗せるには話にならないようだ。
100年前とか200年前とかだと、「私はこう思う」というところから実証研究をしてもよかったのかもしれないが、それから100年とか200年とかの知識の蓄積があるわけで、そういうのを無視して、在野の学生が思いつきの実証研究をしたところで、アカデミアの世界では「だから何?」となるのだろう。
おおよその研究の方向性は思い切って決めるとして、その方向性を確立するための根拠や、調査方法などを考えるのが研究の一部なわけで。
ここを難しく考えすぎなのか、もう少しざっくりと (当てつけでもいいから)「こういう先行研究があります」と言ってしまえばいいものなのか、、、さじ加減がわからない。永遠にわからないのかもしれないけど、やっていくことで程々のラインを見つけられるのかもしれない。
まあ、学部生レベルの一般人が、たかだか1~2週間くらい考えてすぐわかるものでもないのだろうけど。
調べるほどに方向性がぶれそうだから、その辺はうまく軌道を戻しながら、あるいは軌道修正しながら、もっと知識を身に付けて、考えをまとめていくくらいしか今は思いつかない。
知識を吸収することと、知識を作り出すことの狭間で、やきもきしながらも、粘り強く動き続けるのである。